「初めまして、玉宮凪と申します」
今思えば、この時から僕の何かが変わり始めていて、それすらも物語の始まりとしては少し手遅れだったのかもしれない。
なんて書き出しをして思い出し笑いをしてしまうくらいには、この時の僕は確かに未熟で迂闊だった。
大学一年生の6月、初めて訪れたカフェで、席に着いた僕に彼女が初めて言った言葉がそれだった。新生活にも慣れてきて、大学周辺のお店を開拓するのが日課になりつつあったとき、大通りから一本外れた人気の少ない道に目を引くカラーリングの店を見つけて入り込んだのだ。
青色の壁に黄色で「HONEY CALM」と書かれた外装が印象的なカフェの席に座った僕は、開口一番「初めまして」と名乗った女性店員に、そういうお店もあるんだなあと呑気に考えながら「ブレンドコーヒーをお願いします」と注文した。コーヒー好きな僕は、新しく入ったカフェでは必ずブレンドコーヒーを頼む。まず間違いなくメニューに存在していることと、そのお店のこだわりみたいなものが少なからず分かるような気がするからだ。だから僕は、店員さんから返ってくる言葉が「かしこまりました」以外のものであることは全く想像していなかった。
「ごめんなさい、ブレンドコーヒーという名前の商品は取り扱ってないんです」
店員さんの申し訳なさそうな声に、僕は動揺を隠せない。初めて入ったお店で、いかにも通ぶってメニューも見ずに注文したことによる羞恥心もあるが、とはいえカフェでブレンドコーヒーがないというのが驚きの理由だった。
「あ、もしかしてシングルオリジン専門のお店でしたか?」
シングルオリジンとは、大まかに言うと単一の生産地の豆のみを使用したコーヒーのことで、ブレンドの対義語的なニュアンスで使われることもある。産地ごとの味の違いを楽しむという流れで、生産国だけでなく農園等の細かな情報も示されていて、専門店も多くなってきている。
「あら、お詳しいんですね。でもごめんなさい、そういうわけでもないんです。少し意地悪な言い方をしてしまいましたね」
そう言って、店員さんはメニュー表を差し出してくる。その無垢を浮かべた笑顔にすっかりペースを握られてしまう。今どき珍しい、小説のような装飾のメニュー表を受け取り中を見ると、店員さんの言葉の意味がようやく理解できた。
『傍に傍ら』 500円・・・飲みやすくも、飽きの来ないブレンド。日常の傍ら、小さな非日常を傍に。
『遠結び』 550円・・・ほろ苦くて、ちょっぴり甘酸っぱい青春ブレンド。手を伸ばすには遠いけど、名前を呼ぶにはちょっと近い。
『惑星のドレス』 700円・・・華やかで儚げでフルーティなブレンド。私が、君の見てる夜空を着たい。
コーヒーメニューは大半がブレンドで、それぞれ名前がついているのだから「ブレンドコーヒー」と言っても注文にならないわけだ。それにブレンドごとの説明書きに想像が膨らむのが、個人的にとても好きなタイプだった。
「こんなにブレンドがたくさんあるお店は初めてです」
「そうなんです。ブレンドと言っても色々あるので……変な言い方をしてすいません。気になるブレンドはありましたか?」
「では、この『傍に傍ら』をお願いします」
色々と飲んでみたい気持ちは湧いてきたが、ひとまずメニューの一番上、説明書きから見ても定番に位置するであろうブレンドを注文する。
「かしこまりました。では、少々お待ちください」
そう言って、店員さんは席を離れていく。今まで色々なカフェを回ってきた中でこういった展開は初めてで驚いてしまったが、一息ついて店内を見渡す。外装がいわゆるオシャレ系だったため、内装もよくあるカフェみたいな感じだと思っていたが、アンティーク風ではあるものの暗すぎない、イタリアンバルに近い印象を受けた。そして何より目を引くのがカウンター後ろの棚だった。六角形の枠がいくつも連なった蜂の巣のような棚には可愛らしいデザインの瓶やコーヒーカップがいくつも並んでおり、その上には「HONEY CALM」の文字が大きく描かれている。そしてそれを背にコーヒーを淹れる人物の姿に、僕はまたしても驚かされることなった。