木目のハンドグラインダーで手際よく豆を挽き、コーヒーを抽出しているのは先ほどの店員さんだった。バーテンダーのような洗練された美しい所作は、彼女がただの店員ではないことを示すのには十分なもので、そこで初めて僕はあることに気づく。
店内には、彼女以外の店員はいない。つまりは。
「お待たせしました。『傍に傍ら』です」
カップを運んでくる姿すら様になっている彼女に、思わず僕は尋ねる。
「ありがとうございます。もしかして、このお店はお一人でやってるんですか?」
「はい。このハニカムは私一人でやっているカフェです」
黒のショートヘアを揺らしながらはにかむ彼女に、感心するというのはおこがましいが素直に驚いた。
「びっくりしました。自分と同じくらいの歳に見えたのでてっきりバイトさんかと思ったら、コーヒーを淹れる様子がプロみたいだったので」
「ありがとうございます。確かに歳はあまり変わらないかもしれませんね。お客様は学生さんですか?」
「はい、この春から近くの大学に通ってます」
「そうなんですか。でしたら、私の方がちょっとだけ年上ですね。春に調理師学校を卒業して、お店を始めて間もないですから……あ、冷めないうちにどうぞ」
そう言われて、コーヒーを一口飲む。香ばしい香りに柔らかいと感じるほどの質感、重すぎない苦みと優しい余韻の甘さは、その名の通り傍に寄り添ってくれるような懐の深さを感じた。
「美味しい……。今まで飲んだブレンドの中で一番おいしいです」
昔ながらの純喫茶から今時のカフェまで、自慢するわけでもないが相当数巡ってきた。だから単にいい豆を使っているわけではなく、それを最大限引き出す抽出だと飲んでわかる。さきほどの所作といい、自分と二つほどしか歳が変わらないのに著名なバリスタに引けを取らない振る舞いを見せつけられて、尊敬と同時に少しの悔しさもにじんでしまう。
「ほめ上手ですね。お口に合って良かったです」
「ほんとですよ。それに卒業してすぐに自分のお店を持つなんてかっこいいです」
「運と環境に支えられて、って感じですよ。父がロースターを経営していて、販路拡大のためにアンテナショップ設置を計画していたのと私がカフェをやりたがっているのが重なったので、開業費を父に借りる形でやらせてもらってるんです。ブレンドに特化できるのも、豆の仕入れが事実上父の負担だからです」
「それでもすごいですよ。コーヒーもおいしくてマスターも素敵なので、絶対人気が出ると思います」
「そう言っていただけて嬉しいです。まだまだようやくお客さんが増え始めたくらいなので、頑張りますね」
そういってはにかむ彼女の姿はとても印象的で、コーヒーを淹れているときの流麗な雰囲気とのギャップと相まって、ファンになる人は多いのではないかと思った。
店内に客が自分しかいなかったため、その後もコーヒーを飲み、マスターと話しながら過ごした。
――店名の由来ですか? 私の名前が凪なので英語にしてCALM(カーム)、ハチミツが大好きなのでHONEY(ハニー)。我ながら安直ですよね。
――HONEY CALM(ハニーカーム)で略したらハニカムだなって思って、六角形や蜂の巣のハニカムと恥じらいの意味のはにかむとも受け取れるかなって。私、結構人見知りなので……。
――そこまでいくともう開き直っちゃって、特注の焼き型で六角形のワッフルをメニューにしたんです。今度食べてみてくださいね。
人見知りと彼女は言うが、続く会話からはそんなことは感じなかった。コーヒーを飲み終えるまで、まるで常連客と店主の関係のような会話は続いた。
「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
「ありがとうございます。……また、来てくださいね」
会計を済まして入り口のドアに手をかけたその時、後ろから彼女に呼び止められる。
「あ、そういえば。お名前うかがってもいいですか?」
「謡坂次月です。民謡の謡に坂で謡坂、次の月で次月って言います」
「次月さんですね。覚えました。呼び止めてごめんなさい」
これが、僕が初めて玉宮凪さんを知った日。
ちょっと不思議で、出会いというには行き過ぎた日の話。