傍に傍ら -06

――――ぱたん。

 

「……ほぼ実話なのに、こうして文章で読むと我ながらフィクションみたいで恥ずかしいですね」

 あまりの恥ずかしさに思わず本を閉じてしまった私は、それによって視線の先に現れた彼にそう言った。

 

 自分がお店を開くきっかけと言っても過言ではない存在である謡坂次月さんを、世界一のコーヒーが飲めるなんて苦し紛れな誘い文句でお気に入りの場所に連れ出したあの時から、一か月ほど経った。あの時、彼がそのことを小説にしたいと言ったのはどうやらそのままの意味だったみたいで、突然渡された簡易的に製本された冊子を読み終えたところだった。

 まさか、あれって言葉通りの意味だったなんて。だって、『これまで』のだけじゃなくて『これからの』なんて言うのだから、小説書いてる人の表現だし、てっきりそういう長期的な意味の暗喩だと思ってしまったのは、私自身も本の虫だったせいで思考が変だったからなのでしょうか。

「僕も書いていて思いました。最初は物語チックに改変して書こうと思っていたんですけど、ほぼそのまま書いた方が小説らしいなと思ったので」

「私、すごくいじわるな人みたいに書かれている気がします」

「ごめんなさい。でも、書いてみて改めて思いましたけど、店員さんからの、お客さんへの初対面の言葉が初めましてって、やっぱりいじわるですよ」

 

 それは仕方がなかったんです。まさかお客様として現れるなんて思っていなかったから、気が動転して『いらっしゃいませ』という言葉が頭から飛んでしまって。私、あなたのこと知っていますと言うにも、あの頃は前髪含め髪が伸びきっていた上に眼鏡だったから絶対認識されていないと思って、とっさに思い浮かんだのが自己紹介なのだから。でも、そんなことは言えないからごまかすように言う。

「名前を言えば、父のことに気づいてくれるかと思ったのですが……次月さん、全く反応がなかったので」

「だって、あの髪の長くてずっと本を読んでる女性が玉宮さんだったなんて知らなかったんですから、簡単に玉宮焙煎店とは繋がらないですよ」

「ちょ、ちょっと待ってください。あの時は私を見かけたこと一度もないって……」

「いつもお店の端っこで本を読んでる女性がいるのは気づいてましたよ。でも、あまりに今と雰囲気が違ったので、玉宮さんだとは思わなかっただけです」

 

さすがに顔が赤くなってしまう。あの時の私を、姿だけは認識していたなんて。自分で言うのも恥ずかしいけど、髪をバッサリ切ったりコンタクトに変えたりと、内面を変えるなら外見からと言わんばかりに結構なイメージチェンジをしている。それがばれてしまったとなると、かなり恥ずかしいのだけれど。

「でも僕、今の玉宮さんは輝いていて素敵だと思いますよ」

 そんなことを、彼は何の含みもなく言ってしまう。展望台の時もそうだけど、疎いというより迂闊(うかつ)な気がする。

「次月さんもなかなかだと思いますよ。……はい、今日のブレンドです」

 

 淹れたのは即興のブレンドコーヒー。あの日以降、言葉で払うということはやっていないけれど、私がその日の気分で作った即興のブレンドを提供するということは二人の間では日常のようになった。

「今日のブレンドは……かなり苦みが強いですね。……あ、でも良く味わうと甘酸っぱい風味が見え隠れします」

そのとおりです。今の私の気分で作ったブレンドですから。そういう味の細かいところに気づいてくれるのはとても嬉しいのですが。

「どうしてか、分かりますか?」

「うーん。コロンビアの深煎りとかがメインだと思うんですが……甘酸っぱさはケニアをアクセントにしているんですかね。いや、ケニアほどはっきりした感じではないので、エチオピアですか?」

「そうですね……正解と言えば正解です。すごいです。すごいですけど……」

 彼が味に隠された機微(きび)に気づくのは、もう少し先のようです。

タイトルとURLをコピーしました