傍に傍ら -04

 正直、そう長くは続かないと思っていたのだ。ブレンドコーヒーの味から感じたもの文章にするなんて、全くイメージが湧かなかったし、そんなに毎回違う言葉が浮かんでくるほど、コーヒーの味わいの変化も多くはないとだろうと。

 だけど、不思議と言葉が出てこなくなることはなかった。いや、それは不思議なんかではなく、玉宮さんのコーヒーのおかげだと言える。本当に毎回感じるものが違って、酸味や甘味、苦みに加えて香りや質感に至るまで面白いくらいに変化があって、そのすべてがとにかく美味しかった。だからこそ、それを言葉で表現していくのが楽しいと思うようになっていた。

「あの、ありがとうございました」

 自然と僕は声に出していた。

「玉宮さんのコーヒーが本当に美味しくて、毎回表情が違って、それを言葉にするのが楽しくなっていました。文章を書くというのが、純粋に楽しいという感覚を思い出した気がします。本当にありがとうございました」

 初めてハニカムを訪れた時から比べると、暗くなるのも相当に早くなり、閉店間際のこの時間帯にはとっくに夜と言える暗さ。客も自分だけになって気が緩んだのもあるけど、ふいに玉宮さんにお礼を言いたくなってしまった。

「私も楽しんでいますよ。はじめは思い付きで、ちゃんと淹れられるかも不安でしたけど、次月さんが色々な言葉をくれたので嬉しかったです。……それにしても」

 そう言って玉宮さんは何かを思い出すように目を閉じる。少しすると、出会った時のように微笑んでこう言った。

「あなたにお礼を言われる日が来るなんて、思ってもみませんでした。……誰かの何かになるって、こういうことなんですね」

「……あれ、その言葉――」

 彼女の言葉にわずかに引っ掛かりを感じて、問いかけようとしたが、さりげなく遮るように彼女は話をつづけた。

「あの、次月さん。世界で一番美味しいコーヒーを知っていますか?」

「世界で一番、ですか。コピ・ルアクはちょっと違うですし、今でいうならゲイシャになるんでしょうか」

 コピ・ルアクはジャコウネコがコーヒーの実を食べて、未消化のまま(ふん)として排出された豆を洗浄して焙煎したコーヒーだ。腸内で発酵することにより独特の風味を持つとされているが、その稀少性から世界一高額なコーヒーと言われることで有名で、必ずしも美味しさが主な要因ではない。一方でゲイシャはゲイシャ種というコーヒーの品種のことで、とあるオークションで最高落札額を記録したところから有名になったものだ。ジャスミンを彷彿させる華やかで比類なき香りと、長くも柔らかい甘みは唯一無二と呼べるもので、そういう意味ではこちらは世界一美味しいと言ってよいのではないだろうか。

 そんな僕の回答を聞いて、またしても玉宮さんは優しく微笑む。

「ふふ。さすがにお詳しいですね。でも、間違ってはいないかもしれませんが、私は違うと思っています」

「そうなんですか? またすごい品種が出てきたとか?」

「いえいえ、そんな特別なものではないですよ。……飲んでみたいですか?」

「いいんですか?」

「ええ。ただ、ここでは飲めないので、この後お時間あるのであればご案内します。ちょうどお店を閉める時間ですし」

「そうなんですか。玉宮さんが迷惑でないのであれば、僕は全然かまいません」

 玉宮さんの提案に、自称コーヒー通の僕は自然と心が躍ってしまう。ゲイシャは今や超高級品種となってしまったがゆえに滅多に飲むことはなくなってしまったが、それでも初めて飲んだ時の衝撃ではいまだそれを上回るコーヒーには出会っていない。営業時間外というのは申し訳ない気持ちもあるが、まだ見ぬコーヒーならば是非飲んでみたいと思うのだ。

「わかりました。では、閉店の準備しちゃうので、少しだけお待ちいただけますか」

 そう言って玉宮さんは店の後片付けを始める。入り口の札がCLOSEになり、店内の灯りがほとんど落とされた空間に、客である自分が居ることが不思議な感覚だった。何か手伝うことはないかと思ったが、さすがにお客さんにお願いするわけにはいかないですと言われてしまったので、手際よく食器を片付け、掃除を済ませていく玉宮さんをじっと見つめていた。

 会話しているときは柔和で明るい印象の玉宮さんだが、こうやって仕事をしているときやコーヒーを淹れるときの雰囲気は流麗で凛としていて、職人のようなかっこよさがある。こうしてお店を始めるまでに相当に努力を積み重ねていることがよくわかる。やりたいこと、好きなことを仕事にするまで続けていく苦労は、今まさに自分がスランプという形で味わってきたことだから、そういうことを乗り越えてきたのだろうと思うと本当に尊敬する。

「お待たせしました。では、行きましょうか」

 片づけを済ませ、私服に着替えてスタッフルームから出てきた玉宮さんの姿を見て、改めて自分とあまり歳が変わらないのだと実感させられる。自分があと一、二年後にこうやって何かをできているのかと考えると自信が全くないのだから、すごいなという感想しか出てこない。

 玉宮さんの後をついて歩いていくと、向かった先はすぐそばの駐車場だった。

「ちょっと狭いかもしれませんけど、いいですか?」

 案内されたのは赤色の車の助手席だった。小柄な二人乗りではあるが、内装はスポーツカーのようだった。

「これ、玉宮さんの車なんですか?」

「はい。カプチーノっていうんですよ。完全にキャラ付けみたいなものですね」

 遠慮がちながらもおどける様子から、この車を気に入っているんだなというのはなんとなく感じた。シフトレバーを見るにマニュアル車のようだし、いくらキャラ付けとはいえ今時マニュアルの免許を取得するあたり、こだわりはあるようだ。

「乗せてもらっちゃっていいんですか? というより、車で移動するんですね」

「はい。ちょっと移動するんですけど、場所は着いてのお楽しみで」

 初めて会った時もそうだったが、玉宮さんはすこしいじわるが好きらしい。人をびっくりさせるのが好きなのだろう。

 

言われるままに車に乗せられて三十分ほどたっただろうか。着いたのは人気のない小さな山の中腹あたりにある駐車場だった。

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